欠乏感に支配されていた私。でもそれは悪者じゃなかった。

欠けているように見えた心。その正体に気づいたとき、私は自分を抱きしめたくなった。

1.はじめに

欠乏感とは何なんでしょうか?

例えば、寂しい、愛されたい、食べ足りない、安心が欲しい、お金がもっと欲しい、なんかつまらない、

このような足りないと感じる欲求です。

身体の感覚的には、心の中にあるバケツが空っぽだったり、心の中の大切な何かが欠けている様な感覚になります。

皆さんは、どんな欠乏感を感ることがありますか?そして、その時どんな感覚になりますか?

そう感じた時にどうしていますか?

2.欠乏感に支配されていた頃の自分

昔のわたしは、寂しさや満たされない気持ちでした。

忙しかったり何かをしている時は感じません。

欠乏感はふとした時に襲って来ます。

私は、欠乏感を感じたくないから毎日ゲームに没頭していました。

腱鞘炎になるほどだったので多分依存症です。

依存症になってしまった方の多くのきっかけは、欠乏感だったのでは?と私は思えてきます。

欠乏感は、普通に誰にでもある感覚です。

病気でも何でも無いのですが、欠乏感に支配され欠乏感にエネルギーを使っている状態は、人生が勿体ないと感じこの記事を書いています。

3.最近気づいたこと

欠乏感とは、脳にある生き残るための本能的なものです。

赤ちゃんは、自分で自分のことができません。母親(養育者)の助けが必要です。

お腹が空いたりオムツが汚れれば泣きます。

もし、欠乏感が無ければ泣くこともなく、母親に不調や生命の危険を気づいて貰えず死んでしまう可能性もあるわけです。

不安感もそうです、1人では生きない哺乳類が群れの中で協調し、身の安全を守るために発動する機能です。

脳が生きるために感覚としてサインを出しているのです。

欠乏感も不安感も、体感的には不快に感じますが、これらは「生きるための力」でもあるのです。

これに気づいた時、「私は生きたいんだな〜、健気だな〜」と自分が可愛く思いました。

そして欠乏感は、大人になった今は あってもいいけど手放しても良いものなんだと思いました。

4.欠乏感に支配されることは、幸せ?不幸?

答えは「基本的には不幸になりやすい」です。

なぜなら、欠乏感に支配されていると、心の舵を自分で取れなくなってしまうからです。

•   「もっと欲しい」が止まらない

•   他人の言動に振り回される

•   今ここを味わえない

欠乏感は、動機にはなりますが、「恐れ」や「不安」からの動機が強くなると、人生は追われるような感覚になってしまいます。

5.ちなみに、欠乏感は完全になくなったらどうなるのでしょうか?

2パターンあると考えます。

① 麻痺や諦めによって欠乏感を感じなくなった状態

これは、心を閉ざしたり、感情を感じないようにした結果、欠乏感も感じなくなるケースです。

「もうどうでもいい」「何も感じない」といった感覚。

これは一見、欠乏感が消えたように見えますが、実際には感覚や欲求そのものを抑え込んでいる状態。

活力や人間らしさが失われ、無気力、孤独、虚無感などに繋がりやすくなります。

これは明らかに人の本質から遠ざかった状態で、何か病気にならないか?と心配になりますね。

② 成熟や統合によって欠乏感を超えた状態

これは、瞑想や精神的成長、感情消化と自己受容を通じて達する状態です。

「足りない」と思っていた部分が「すでに満たされている」と感じられるようになる。

この状態では、外に何かを求めるのではなく、内側に深い安心感があります。

仏教やスピリチュアルな世界で「悟り」や「空(くう)」と表現されることもあります。

例:

•   愛されたい → 自分の中に愛があると気づく

•   認められたい → 自分を認める力が育つ

この状態では、欠乏感を感じなくなり、行動のエネルギーは「恐れ」ではなく「喜び」や「創造性」になります。

6.欠乏感は悪いものではない

ただし、欠乏感は「人間らしさ」や「成長の種」でもあります。

大切なのは「支配されること」ではなく、「気づき、対話すること」。

欠乏感を感じたときに、

• それはどこから来たのか?

• 何を本当に求めているのか?

• どうやったら健やかに満たせるのか?

と内側を見つめると、

欠乏感の正体が、空っぽの器ではなく、実は「魂にへばりついた不要な信じ込み」だったと気づけるかもしれません。

7.まとめ

欠乏感は、向き合うことで人生の先生になります。

お読みくださりありがとうございました。

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